トップ > サイトマップ > 蘆名氏時代
会津の地名
古くは『相津』と書いた。
崇神天皇(第10代天皇。現在、実在した可能性が見込める最古の天皇)の時代、諸国平定の任務を終えた大彦命(おおびこのみこと)が、子である建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)とこの地で出会ったことに由来している。
東北の玄関口にあたる福島県
会津は古くから大きく開けた土地であり、東北の玄関口・白河(しらかわ)とともに栄えた。
福島県の西半分を占めるのが、奥羽山脈や越後山脈に挟まれた山岳地帯に開けた会津盆地を中心とする会津地方。その中核をなすのが盆地の東南に位置する会津若松。
領地としての始まり
文治5(1189)年、源頼朝が北の守護として佐原義連(さわらよしつら)に会津を与えたことが始まり。
佐原氏は出身地の相模国蘆名(現・横須賀市芦名)にちなみ、3代・光盛(みつもり)の時に蘆名に改姓する。「芦名氏」「葦名氏」「三浦芦名家」と表記される事もある。
文治5年 (1189) |
佐原義連(さわらよしつら)、奥州合戦に功あり、奥州・会津に所領を得る。 佐原義連は、相模国(現・神奈川県)の御家人・三浦大介義明の七男にあたり、文治5(1189)年に源頼朝が弟の義経や平泉の奥州藤原氏を討った奥州合戦にも出陣し、畠山重忠や和田義盛に劣らぬ戦功を挙げ、頼朝から会津4郡を与えられた。 |
文和3年 (1354) |
斯波家兼(しばいえかね)、奥州官領となり大崎5郡を領有。 室町幕府は斯波家兼を奥州管領とした。家兼は大崎地方の5郡を領したので、家兼を跡を継いだ嫡男・直持以来大崎氏を称する。 |
天文10年 (1541) |
蘆名盛舜の隠居にともない盛氏(もりうじ ※1)が、蘆名氏第16代当主となる。 盛氏のころ、蘆名氏は最盛期を迎える。 |
天文11年 (1542) |
伊達稙宗(だてたねむね)・晴宗(はるむね)父子対立、天文の乱起こる(天文17年まで)。 天文の乱と呼ばれる伊達父子の争いは、蘆名盛氏ばかりでなく、入り組んだ姻戚関係をもつ奥州大名たちを巻き込み、6年の長きにわたった続いた。盛氏は晴宗方となって、最終的な勝者の側に立ち、その後晴宗の跡を継いだ輝宗(政宗の父)とも和を組んで、国境の安定を保った。 |
永禄4年 (1561) |
盛氏(もりうじ ※1)、家督を盛興(もりおき)に譲り隠居。 この年、第4次川中島合戦。 41歳の盛氏は家督を嫡男・盛興に譲り、隠居となる。 黒川から南12キロほどの向羽黒山に隠居城を築き、そこから奥州のみならず、関東・甲越および都の情勢を望みながら、盛興の後見として家政を執るつもりだった。 |
天正2年 (1571) |
蘆名盛興(もりおき)死去。 二階堂家から盛隆(もりたか)を養子に迎え、蘆名家を継がせる。 27歳で盛興が急逝。死因は酒毒だったともいわれている(盛興は異常に酒を好み、それを見かねた盛氏は領内に2度の酒造禁止令を出した)。 盛興の妻は伊達輝宗の養女で、娘は一人あったが嫡男はなかった。悩んだ盛氏は須賀川城城主・二階堂盛義の子、盛隆を養子として盛興の跡を継がせた。 |
天正8年 (1580) |
蘆名盛氏(もりうじ)死去。 上杉景勝)、蘆名氏に友好を求める。 |
天正12年 (1584) |
盛隆(もりたか ※2)、家臣・大庭三左衛門(おおばさんざえもん)に討たれる。 盛隆の生後1ヶ月の息子・亀王丸 (かめおうまる)が後継となる。 |
天正13年 (1585) |
伊達政宗、二本松城を攻め人取橋で蘆名・佐竹軍と激戦。 |
天正14年 (1586) |
亀王丸、病死。 佐竹義重の次男・義広(※3)を養子とし後継となる。 |
天正17年 (1589) |
義広、伊達政宗に敗れ、常陸太田に逃走。 会津蘆名氏滅ぶ。 痘瘡を患った亀若丸が3歳で急死すると、跡継ぎをめぐって重臣間の意見が分かれた。盛興の遺児・岩姫に婿を取るという点では一致したが、その婿を政宗の弟・竺丸にするか、佐竹義重の次男・義広にするかで、揉めた。 前年、二本松城を攻めた政宗と激闘となった人取橋の合戦で勝ちきれず、伊達家との婚姻を拒む宿老たちの意見が通り、婿は義広と決まる。実父・義重の後ろ盾も期待された。 この決定に不満の政宗は再び会津を攻めた。2万3000の伊達軍に対し、蘆名氏は1万6000。頼みの義重は家中に謀反が起こって援軍を送れず、義広の敗走となった。 |
※1 蘆名氏第16代当主
蘆名盛氏(あしなもりうじ)
大永元(1521)年、黒川城城主・蘆名盛舜(もりきよ)の嫡子として生まれる。
父の隠居を受けて21歳で家督を相続。
陸奥国会津地方の土豪たちを巻き込んだ伊達家の内乱に乗じて周辺の豪族を降伏させ、会津地方の大部分を平定すると、さらに陸奥国仙道地方にまで勢力を伸ばした。
41歳で家督を嫡男・盛興(もりおき)に譲ってからも実権を握り続け、関東地方を支配する北条氏政と同盟を結び、仙道地方をめぐって敵対していた常陸の佐竹家に対抗するとともに、出羽から仙道地方に侵攻を開始した伊達輝宗とは和睦するなど、拡大した領土を維持。
天正2(1574)年、盛興が急死すると、二階堂盛隆(もりたか)を養子として蘆名家を継がせ、その後も上杉謙信亡き後の上杉家の家督争いに介入するなど、晩年まで戦いに明け暮れた末、天正8(1580)年、黒川城で60年の生涯を終えた。
※2 蘆名氏第18代当主
蘆名盛隆(あしなもりたか)
永禄4(1561)年、須賀川城城主である二階堂盛義の嫡男として生まれる。
永禄9(1566)年、二階堂家が陸奥国会津の蘆名盛氏に臣従した際、人質として蘆名家に送られた。14歳のときに蘆名家当主の盛興が死去したことを受けて、盛氏の養子となり家督を相続。
天正8(1580)年、家中の実権を握っていた養父が死去した後は、常陸の佐竹家や越後の上杉家と提携して陸奥国南部の土豪である田村清顕の侵攻を防ぎ、いっぽうで中央の覇権を握る織田信長と親交を結んだ。
天正12(1584)年、当主を兼任していた生家の勢力回復に努めるなか、二階堂家から連れてきた家臣と蘆名家家臣との間で内紛が勃発すると、これを鎮圧したものの、その約4か月後、盛隆に恨みを抱いていた側近に・大庭三左衛門に襲われ、24年の生涯を終えた。
※3
蘆名義広(あしなよしひろ)
天正3(1575)年、太田城城主・佐竹義重の次男として生まれる。
幼くして佐竹配下の土豪である結城家に送り込まれ、その家督を相続した。
天正15(1587)年、陸奥国会津を支配していた蘆名家の跡継ぎが途絶えたことを受けて、わずか13歳で当主に迎えられたが、家臣の一部が伊達政宗に通じていたなか家中をまとめられず、2年後の摺上原の戦いで政宗に大敗。実家を頼って常陸へ亡命せざるを得なくなり、その後、佐竹家が豊臣秀吉に臣従したことで、常陸国江戸崎に4万5000石を与えられた。
しかし、天下を狙う徳川家康と豊臣家重臣の石田光成が対立した際に佐竹家が立場を明確にせず、関ヶ原の戦いに勝利した家康に出羽への本拠移転を命じられると、これにともない領地を失うこととなり、以降は佐竹家家臣として出羽国角館の統治を任され、寛永8(1631)年に57歳の生涯を終えた。