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4世紀に亘り会津の地を支配した蘆名家を摺上原の戦いで破り、伊達政宗が会津を支配
永禄10年 (1567) |
伊達政宗、米沢城に生まれる。 政宗誕生の頃、出羽国置賜郡米沢に本拠を置いていた伊達家は、鎌倉時代の先祖が奥州討伐戦に功があり、源頼朝から陸奥国伊達郡を拝領し、その地名を名乗って土着した一族。 |
天正5年 (1577) |
政宗、米沢城で元服。 政宗は幼少時に疱瘡にかかり、右目がつぶれ、顔はぶつぶつの痘痕だらけという容姿にコンプレックスを抱いていた。政宗の評価が一変したのは、初陣の戦いぶりからだった。政宗15歳のころである。嫡男の奮闘ぶりに父・輝宗は満足し、政宗が18歳になると家督を譲った。 |
天正10年 (1582) |
本能寺の変 織田信長、家臣の明智光秀に討たれる。 |
天正15年 (1587) |
人取橋の戦い・・・引き分け 伊達政宗 VS 畠山・佐竹・蘆名 政宗は当主になると、仙道制覇を目指す。『仙道』とは、海道に対する山道のことで、陸奥では白河から仙台まで奥州を縦断する街道のこと。 政宗の野望にとって第一の障害になったのが、米沢の南方・会津を支配する蘆名家の存在だった。 畠山・佐竹・蘆名家らの連合軍に決戦を挑み、敵の足並みの乱れで引き分けに。 |
天正17年 (1598) |
6月、摺上原の戦いで政宗が蘆名家を倒し、会津を支配。 7月、豊臣秀吉、上杉景勝・佐竹義重に政宗討伐を命じる。 9月、政宗、秀吉に蘆名家討伐につき弁明。 摺上原の戦いで蘆名義広を破り、義広の本拠・黒川城に入城。 勢いに乗った政宗は二階堂家の内紛に乗じて須賀川を手中にし、伊達家の領土はほぼ現在の福島県中通りと会津、山形県南部、宮城県中南部に及ぶ広大なものとなる。 |
天正18年 (1590) |
北条氏を討った秀吉の奥州仕置により政宗の会津領没収。 政宗の傍若無人な戦いは秀吉を激怒させる。裁きによって死罪は免れたものの、政宗は元の米沢城に戻され、黒川在城はわずか1年で終わりを告げた。 |
伊達家
常陸国伊佐荘(茨城県筑西市)が発祥地で、朝宗の代に、源頼朝から陸奥国伊達郡(福島県伊達市)を領地として与えられた。
大永2(1522)年、稙宗が陸奥の守護に着任。晴宗の代になると、最上、佐竹、蘆名といった周辺の有力者たちと婚姻関係を結び、領地支配の安定を図る。こうした方針に踏襲した父の輝宗から家督を引き継いだ政宗は、それまでの路線を転換。領土拡大を目指して、友好関係にあった武将たちを次々と攻略するとともに、娘を徳川家康の六男である松平忠輝に嫁がせるなど、東北地方の雄としての立場を築いていった。政宗の死後は、嫡男の忠宗が仙台藩藩主を引き継ぐいっぽう、側室の子である秀宗が宇和島藩の初代藩主となるなど、その系譜を存続させた。
伊達宗政
永禄10(1567)年、米沢城城主・伊達輝宗の嫡男として生まれる。
幼少期に患った疱瘡が原因で右目を失明。
父の隠居にともない18歳で家督を相続。
出羽、陸奥において領土を拡大し、天正17(1589)年に摺上原の戦いに勝利したことで、東北地方最大の勢力となった。『独眼竜』として全国にその存在を知らしめた政宗だったが、時の関白・豊臣秀吉の怒りを買い、減封(領土の一部を没頭)。その後は、秀吉に恭順したものの、東北一の座を追われることになる。
秀吉の死後は、徳川家康と良好な関係を築き、仙台藩初代藩主として、東北地方最大の勢力を再び獲得。以後は、徳川家との関係を保ちながらも、ヨーロッパに独自の使節団を派遣するなど、仙台藩の独立という夢を抱き続けたが、かなうことなく、70歳でその生涯を終え。
人取橋の戦い
天正13(1585)年11月17日
天正13(1585)年10月15日、出羽国南部を支配する伊達政宗は、父を死に追い込んだ畠山家の居城である二本松城(福島県二本松市)を攻撃。しかし、守りは堅く、大雪に見舞われたこともあり、いったん拠点の小浜城(福島県二本松市)に撤退する。
対する畠山家は、このすきに常陸の佐竹家や陸奥国南部の蘆名家ら、伊達家の南下を危惧していた勢力に救援を約3万の連合軍を結成。
こうした事態を受け、政宗は反伊達連合軍の北上を阻止しようと、約7000の軍勢を率いて出撃し、観音堂山(福島県本宮市)のふもとに布陣。
11月17日、阿武隈川の支流である瀬戸川に架かる人取橋付近で両軍が激突。兵力で圧倒的に劣っていた政宗は窮地に追い込まれる。ところが、日没によって一時戦闘が中断した間に主力の佐竹家が帰国したことで反伊達連合軍は解散し、戦いは決着を見ないまま終結。
摺上原の戦い
天正17(1589)年6月5日
天正17(1589)年5月、伊達家の家督を相続して以降、出羽、陸奥において、各勢力の敵対と和睦が繰り返されるなか、領土拡大を目指した伊達政宗は、ことあるごとに対立していた陸奥国会津の大勢力である蘆名義広との決着をつけるため、本拠の米沢城(山形県米沢市)を出発。蘆名配下の城を次々に陥落させた。
いっぽう、突然の伊達軍の襲撃に驚いた義広は、奪われた城を取り戻すべく本拠の黒川城(福島県会津若松市)を出撃したが、伊達軍の向かう先が黒川城であることを察知して急きょ帰還。黒川城から約10km北東に位置する高森山(福島県磐梯町)に布陣して、伊達軍に対する迎撃態勢を整えた。
両軍は6月5日、磐梯山のふもとにある摺上原で激突。当初、戦況は蘆名軍優位に進んだが、伊達軍別働隊の迂回攻撃によって蘆名軍は総崩れとなった。
結果、義広は黒川城に逃げ帰ったばかりか、家臣たちによって追放され、本拠を捨てて敗走。こうして戦いに勝利した政宗は、東北地方最大の勢力に飛躍した。