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会津若松の基礎を築いた蒲生氏郷
弘治2年 (1556) |
蒲生氏郷、賢秀の嫡男として近江・日野城に生まれる。 |
永禄12年 (1569) |
氏郷、織田信長に才能を見込まれて信長の娘・冬姫と結婚。 賢秀の主家・六角氏が信長に滅ばされたため、13歳で信長の人質となる。信長に従って出陣・転戦し、数々の戦功を挙げたので、信長は織田家の将来を支える一人と見込み、次女の冬姫の婿とした。 |
天正12年 (1584) |
氏郷、豊臣秀吉に仕え、伊勢松坂城城主となる(12万石)。 氏郷は合戦に強いばかり ではなく、父から受け継いだ日野でも、本能寺の変後に秀吉から任された伊勢国松阪でも、信長譲りの楽市楽座の制を積極的に進め、城下に人を集めて豊かな町を作り上げた。『日野商人』『松阪商人』と呼ばれる有能な経済人たちもそこから出た。 |
天正18年 (1590) |
氏郷、秀吉の伊達政宗処分により会津に入封。 長年続いた蘆名家の遺風も残る会津、それに伊達政宗を抑え、関東に移封した徳川家康にもにらみを効かせることできると者として、秀吉は蒲生氏郷に白羽の矢を立てた。 |
天正19年 (1591) |
氏郷、政宗と大崎・葛西一揆を鎮圧。 伊達政宗は、秀吉の小田原参陣要請を拒否し領地を没収された葛西氏、大崎氏の旧家臣や領民らを陰で操り、大規模な一揆を起こさせた。 九戸政実の乱を鎮圧。 秀吉は、陸奥国北部の大名である南部家家臣の九戸政実が謀反を起こしたことを受け、軍勢を派遣。 氏郷は、最上義光をはじめとする東北地方の諸大名らとともに政実の居城・九戸城を囲み、政実を降伏させた。 |
文禄元年 (1592) |
氏郷、黒川城修築開始。 蘆名直盛によって築かれた館を前身とする平山城。氏郷の手により、7層の天守を持ち、石垣を多用した東北随一の堅城へと改修され、鶴ヶ城と命名。 城の内部に武家屋敷を置き、その北方(外郭)を町人街とし、東西南北に碁盤の目のような十字路を走らせて通行の便を図り、町人街の北側に寺院群を置くという町普請である。 大町、馬場町、本郷町、桂林寺町に市を開かせ、日野や松阪で成功したように、そこを楽座楽市とした。会津塗の漆器、酒、味噌、醤油、刀剣などの特産品が生まれる。 朝鮮出兵のため肥前名護屋で越年。 |
文禄2年 (1593) |
氏郷、名護屋城で発病し帰国。 居城竣工。黒川を若松と改称。 |
文禄3年 (1594) |
太閤検地で氏郷の所領は91万9321石に。 氏郷、病状悪化。 |
文禄4年 (1595) |
氏郷、伏見で死去。 嫡男・秀行が跡を継ぐ。 秀行、徳川家康の三女・振姫と婚約。 |
慶長3年 (1598) |
秀行、御家騒動の責を問われ、宇都宮18万石に転封。 |
蒲生家
平安時代の武士である藤原秀郷の流れをくむ。
近江国蒲生郡(滋賀県蒲生郡)に移住した惟賢が蒲生姓を名乗った。
貞秀の代から近江守護の六角家に仕え、高郷の代にはその重臣となったが、賢秀の代に六角家が織田信長に敗れ没落したことで信長に臣従。
賢秀の嫡男で、信長の娘と婚姻した氏郷は、信長の死後、豊臣秀吉に従うとともに、妹を秀吉の側室とした。
氏郷の病死により跡を継いだ秀行は、家臣団の不和が原因で、一度下野国宇都宮への本拠移転を
命じられるが、徳川家康の娘である振姫を妻に迎えて徳川家とのつながりを深め、関ヶ原の戦いの後には陸奥国会津を治める大名として復帰。
しかし、嫡男の忠郷が子のないまま早世し、家督を相続した次男の忠知もやはり子を持たずに死去してしまったため、蒲生家は消滅することとなった。
蒲生氏郷
弘治2(1556)年、日野城(滋賀県日野町)城主・蒲生賢秀の嫡男として生まれる。
六角家没落後に父が織田信長に臣従したことで、13歳で人質となるが、その才能を認められ、翌年に信長の娘と結婚するとともに、日野城への帰還を果たした。以降、織田家家臣として槙島城の戦いなどで活躍し、天正10(1582)年、信長が本能寺の変で自刃した際には、信長の妻子を日野城に迎えて保護。
その後、明智光秀を破った豊臣秀吉に臣従し、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにおいて武功を立てたことで、伊勢に12石を与えられた。
天正18(1590)年、東北の伊達政宗や関東の徳川家康に対する監視役として、秀吉から陸奥国会津への本拠の移動を命じられると、政宗との確執を抱かえながらも、大崎・葛西一揆や九戸の乱の鎮圧に尽力。36歳で92万石を治める東北一の大名となったのだった。
しかし、文禄元(1592)年、朝鮮出兵の際に名護屋城(佐賀県唐津市)の陣中で発病し、その3年後に京の屋敷で40年の生涯を終える。
大崎・葛西一揆
天正18(1590)年10月
小田原攻めに参加しなかったことで領地を没収された
陸奥の大崎義隆と葛西晴信の旧臣や旧領民たちが、新たな領主となった木村吉清に不満を抱いて一揆を
起こすと、秀吉の命を受けた蒲生氏郷は討伐の位置するため出撃。黒川城から約174km北東に一揆方の佐沼城に総攻撃を仕掛けて攻略し、続いて
名生城を攻め落とした。ところが、協力を要請していた伊達政宗が一揆を扇動した張本人であるとの知らせを受けて、以後は名生城に籠城。政宗から人質を取った上で伊達軍に一揆を攻めさせ、鎮圧戦は天正19(1591)年7月に終わった。
九戸の乱、九戸政実の乱
天正19年(1591)年1月17日から9月4日
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、陸奥国北部を任せていた南部信直から、謀反を起こした一族の九戸政実を討伐するための援軍派遣を要請されると、このころ東北地方各地で勃発していた反乱も伏せて鎮めるべく、出陣を命令。
豊臣秀次を総大将として、浅野長政や堀尾吉晴らを差し向けるとともに、蒲生氏郷や伊達政宗、最上義光ら東北の大名も動員した。
いっぽう、豊臣方の大軍が押し寄せてくるとの情報を受け、配下の土豪たちの多くが離反するという事態に見舞われた政実は、やむなく居城である九戸城に籠城して、迎撃を整える。
9月、豊臣軍のうち氏郷ら九戸討伐を担当する部隊は、九戸配下の姉帯、根反両城を陥落させた上で九戸城を包囲。力攻めでは自軍の損害が大きいと判断し、城兵の助命などを条件に降伏を勧告した。ところが、豊臣軍は、これに応じて政実が城を出てきた後、城内の者を殺害し、さらに政実も処刑して、反乱を鎮圧した。
九戸の乱終結により東北地方の反乱を完全に鎮圧した秀吉は、次なる野望である朝鮮出兵に照準を合わせ、準備をはじめる。