トップ > サイトマップ > 上杉氏時代
豊臣政権にとって関東・東北支配は要。
前領主・蒲生氏に代わり120万石で入封するが、秀吉の死によって運命が暗転。屈辱の米沢転封。
会津若松は会津西街道と白河街道が出会う交通の要地であり、奥州の伊達政宗や江戸の徳川家康らの押さえの地として重要性が高い。
秀吉はそこに器量人として評価の高い蒲生氏郷を抜擢。しかし、氏郷は40歳で病死してしまう。遺児の秀行には荷が重すぎると見て、上杉景勝を移封し、その任を当てることにした。
慶長3(1598)年正月、上杉景勝は豊臣秀吉によって養父・謙信以来の越後と信濃四郡に代わり、会津92万石へ移封された。それまでの景勝の領国のうち佐渡13万石、庄内14万石は手元に残されたので、これを加え上杉家は120万石の大大名となった。
これは秀吉に従う諸大名のうち、徳川家康250万石、毛利輝元120万5千石に次ぐ第3位の大領である。
景勝が新たな会津若松城の藩主となり、ほどなく秀吉は病死してしまう。
慶長4(1599)、伏見から会津に帰った景勝は鶴ヶ城を手狭と見、直江兼続を総督として城の北西にある神指村に12万人を動員して新城・神指城の建設を開始。
神指城の建設は戦のためではなく会津の町を新たに作り直す狙いがあったとされるが、親徳川で上杉家を出奔した藤田信吉や堀秀治が上杉家謀反を訴えると、以前城の普請を許可したはずの家康は、上洛して申し開きをするように書状を送った。兼続が、家康の非を列挙し、景勝上洛の必要ない、と記した『直江状』を返送して家康を激怒させた。
慶長5(1600)年7月、上杉景勝に謀反の疑いが濃厚であると、家康が大討伐軍を催し、会津に向けて出陣すると、その機に乗じて石田三成らが反家康の軍を起こした(関ヶ原の戦い)。
伊達政宗は千載一遇のチャンスと動き出す。白石城を落とし、河俣城を奪い、さらに南下し伊達郡桑折に兵を進めた。景勝はすぐさま河俣城を奪い返し、白石城にも攻撃をかけた。
政宗は家康に援軍を要請したが、家康は動かず。また政宗にも動かぬように命じた。窮地に立った政宗は景勝に休戦を申し入れ、景勝も受け入れる。
慶長6(1601)年、景勝は上洛して家康に謝罪。
領地を米沢30万石に減封するという処分を受け、会津若松を去った。
弘治元年 (1555) |
上杉景勝、越後坂戸城主・長尾政景の次男として生まれる。 |
永禄10年 (1567) |
上杉謙信の養子となる。 |
天正6年 (1578) |
謙信死去。 北条氏からの養子・景虎と相続争い(御館の乱)。 |
慶長3年 (1598) |
1月、景勝、豊臣秀吉の命により蒲生秀行に代わって会津領主となる(120万石)。 8月、秀吉死去。 9月、景勝、若松城を発して伏見に入り、国政を担当。 |
慶長4年 (1599) |
景勝、若松城に帰り、仙道7郡の道路や橋の整備に着手。 |
慶長5年 (1600) |
2月、景勝、神指原に新城の建設開始(築城総監督は直江兼続)。 9月、関ヶ原の戦い、景勝の属する西軍破れる。 |
慶長6年 (1601) |
景勝、米沢に移封。 蒲生秀行、会津領主に復帰。 |
上杉景勝
弘治元(1555)年、坂戸城(新潟県南魚沼市)城主・長尾政景の次男として生まれる。
父・政景の死後、叔父である上杉謙信の養子に迎えられた上杉景勝は、天正6(1578)年に謙信が急死すると、北条家出身で同じく謙信の養子であった上杉景虎と対立。両者が激突した御館の乱には勝利して謙信の跡を継いだが、内乱によって上杉家が弱体化したため家臣の反乱を招き、さらに織田信長の侵攻にも苦しめられた。
しかし、本能寺の変で信長が自刃したことで窮地を脱し、その後は信長の後継者となった豊臣秀吉に臣従して越後を平定。豊臣政権下では数々の戦いに出陣し、44歳の時に秀吉の命で陸奥国会津に本拠を移すことを余儀なくされるが、120万石を治める東北一の大名となった。
秀吉の死から2年後の慶長5(1600)年、同じ五大老だった徳川家康から謀反の疑いを掛けられたことで、側近の直江兼続が家康に対して絶縁状を送付。これをきっかけに上杉討伐を起こされたものの、石田光成の挙兵を聞いて家康が引き返した際には追撃せず、家康方についた最上義光や伊達政宗を相手に東北で戦いを展開した。
関ヶ原の戦いにおいて三成率いる西軍が敗北すると家康に恭順し、領地を4分の1に減らされた上杉家の立て直しに兼続とともに力を注ぎ、米沢藩初代藩主として元和9(1623)年に病死。69年の生涯を終える。
上杉景虎
北条家と上杉家の同盟締結にともない上杉謙信の養子となり、景勝の妹を正室に迎えた北条氏政の弟。
謙信が後継者を指名しないまま急死したため、家督をめぐり景勝と対立して御館の乱を引き起こしたが、破れて自刃した。
直江兼続
『天下の陪臣』の異名をとった側近で、幼少時代から景勝に仕え、御館の乱においても景勝の上杉家
相続に尽力。上杉家が臣従した豊臣秀吉からは、直臣への 取り立ての誘いを受けたが固辞し、生涯景勝の家臣の立場にとどまる。秀吉の死後、景勝に謀反の疑いを掛けた徳川家康に『直江状』と呼ばれる絶縁状を送りつけたとされ、上杉討伐を招いたが関ヶ原の戦い後は徳川家と上杉家との関係改善に尽力した。
御館の乱 天正6(1578)年3月
上杉家の家督争い
上杉謙信の死後、景勝と同じく謙信の養子となっていた北条家出身の上杉景虎との間で後継者争いが勃発すると、景勝は、上杉家の居城である春日山城を占拠。武田信玄の跡を継いだ勝頼に、景虎を援助しないよう要請したいっぽう、春日山城にほど近い御館に立てこもった景虎を攻撃した。そして翌年3月、景虎を自刃に追い込み、上杉家の当主となったのである。
豊臣秀吉
本能寺の変後、織田信長の後継者となり、景勝を臣従させた天下人。
天下統一事業を進めるに当たって、地方大名のなかでいち早く臣従の意を示した景勝を信頼して重用した。
上杉討伐 慶長5(1600)年7月
徳川家康との戦い
豊臣秀吉の死後、政権奪取に動き出した徳川家康から謀反の疑いを掛けられた景勝は、上洛して釈明をするように求められたもののこれを拒否。上杉家の重臣・直江兼続は、家康に絶縁状ともいえる『直江状』を送りつけ、その過激な内容に激怒したとされる家康が討伐を決めると、景勝も決戦を覚悟したが、家康と対立していた石田三成が挙兵したことを受け、徳川軍が引き返したため戦闘に発展することはなかった。
徳川家康
景勝に謀反の疑いを掛け、上杉家からの絶縁状を受けると上杉討伐の兵を起こし、関ヶ原の戦い後に上杉家の領地を大幅に削減した。
長谷堂城の戦い 慶長5(1600)年9月
最上義光との戦い
景勝は、反転した徳川軍を追撃することなく、徳川家康に味方していた最上義光の討伐を直江兼続に命令。兼続は、最上方の諸城を次々と落とし、本拠の会津若松城から約86km北東に位置する最上家の重要拠点である長谷堂城を攻撃した。しかし、義光から要請を受けて伊達政宗が救援に動き、さらに石田三成率いる西軍が関ヶ原の戦いで敗北したため、10月に撤退。その後、景勝は家臣の本庄繁長を派遣して家康に降伏の意思を表明し、翌年、120万石から30万石へと領土を減らされた上で、米沢城への本拠移動を余儀なくされた。
伊達政宗
陸奥国会津に移封された景勝と対立。長谷堂城の戦いで最上義光に援軍を派遣。
最上義光
陸奥国会津に移封された景勝と対立。石田三成による西軍挙兵に際して徳川家康に協力し、長谷堂城の戦いで景勝と激突した。