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上杉家が去った後、会津藩主に返り咲いた蒲生氏
慶長3(1598)年3月、秀吉の命令で蒲生秀行は会津92万石から宇都宮18万石で移封された。
理由
※蒲生騒動(若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動となった)を秀吉に咎められ会津領を没収。
※秀行の母・冬姫(織田信長の娘)が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫は拒絶し、すぐに剃髪して出家。これに立腹した秀吉が会津領を没収。
慶長5年の関ヶ原の戦いで、秀行は宇都宮城で上杉景勝の牽制に当たった。
東軍の勝利となった戦後、景勝は会津領を没収され、戦功を賞された秀行が会津に戻された。
実際には景勝が宇都宮城に兵を向けたわけでもなく、秀行が目立った働きをしたわけでもない。この復帰は、秀行が家康の三女・振姫を妻としていた賜物であった。
慶長16(1611)年8月21日、会津若松一帯は大地震に見舞われた。
地震の規模マグニチュードは7程度と推定されており、震源が浅かったため局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。家屋の被害は会津一円に及び倒壊家屋は2万戸余り、死者は3,700人におよんだという。
大災害から城下を復興するさなか、秀行は30歳の若さで没した。
慶長17(1612)年5月、父の秀行が死去したために10歳の幼い忠郷が会津60万石を継ぐ。しかし、未だ若年であったため母・振姫の後見を受けた。
大災害に直面し、領内の建て直しに奮闘した仕置家老・岡重政は領民の暮らしが成り立つように領内の復興を進めていく。
しかし、鶴ヶ城や寺社群の速やかな修築を望む振姫と対立。振姫は岡の処分を父・家康に訴え、岡は切腹を命じられ、妻子は会津を退去することに。
忠郷は、元和5(1619)年(1619年)、正室に藤堂高虎の娘を迎える。
寛永3(1626)年、後水尾天皇の二条城行幸に際し上洛、行幸の後、正四位下参議に昇進した。このとき疱瘡に罹患し、翌寛永4(1627)年1月4日、26。歳の若さで亡くなる。
忠郷に嫡子が無かったため、本来なら蒲生氏は断絶するところであったが、母が家康の娘であるということで、上山藩4万石を領していた弟の忠知を後嗣として伊予松山24万石が与えられ、蒲生家を繋いだのだった。
天正11年 (1583) |
秀行、蒲生氏郷・冬姫の嫡男に生まれる |
文禄4年 (1595) |
父・氏郷死去 秀行、徳川家康の娘・振姫と婚約し、家督を継ぐ |
慶長3年 (1598) |
御家騒動を咎められ、宇都宮へ移封(18万石に減封) |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い 秀行、結城秀康とともに上杉勢の南下を阻む |
慶長6年 (1601) |
米沢へ移封された上杉氏に代わり、秀行、会津藩主に復帰 |
慶長8年 (1603) |
嫡男・忠郷生まれる |
慶長14年 (1609) |
重臣・蒲生郷成と岡重政が対立、郷成派が若松城下を立ち退く |
慶長16年 (1611) |
凶作と大地震に見舞われ、大きな財政負担を抱かえる |
慶長17年 (1612) |
秀行死去 忠郷が家督を継ぐ 重臣間の抗争続く |
寛永4年 (1627) |
忠郷死去 弟・忠知が家督を継ぐが、伊予松山に転封 |