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2013年04月16日

【会津の歴史】蒲生氏時代(後期)

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上杉家が去った後、会津藩主に返り咲いた蒲生氏


慶長3(1598)年3月、秀吉の命令で蒲生秀行は会津92万石から宇都宮18万石で移封された。

理由
※蒲生騒動(若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動となった)を秀吉に咎められ会津領を没収。

※秀行の母・冬姫(織田信長の娘)が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫は拒絶し、すぐに剃髪して出家。これに立腹した秀吉が会津領を没収。


慶長5年の関ヶ原の戦いで、秀行は宇都宮城で上杉景勝の牽制に当たった。

東軍の勝利となった戦後、景勝は会津領を没収され、戦功を賞された秀行が会津に戻された。

実際には景勝が宇都宮城に兵を向けたわけでもなく、秀行が目立った働きをしたわけでもない。この復帰は、秀行が家康の三女・振姫を妻としていた賜物であった。



慶長16(1611)年8月21日、会津若松一帯は大地震に見舞われた。
地震の規模マグニチュードは7程度と推定されており、震源が浅かったため局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。家屋の被害は会津一円に及び倒壊家屋は2万戸余り、死者は3,700人におよんだという。

大災害から城下を復興するさなか、秀行は30歳の若さで没した。


慶長17(1612)年5月、父の秀行が死去したために10歳の幼い忠郷が会津60万石を継ぐ。しかし、未だ若年であったため母・振姫の後見を受けた。

大災害に直面し、領内の建て直しに奮闘した仕置家老・岡重政は領民の暮らしが成り立つように領内の復興を進めていく。

しかし、鶴ヶ城や寺社群の速やかな修築を望む振姫と対立。振姫は岡の処分を父・家康に訴え、岡は切腹を命じられ、妻子は会津を退去することに。


忠郷は、元和5(1619)年(1619年)、正室に藤堂高虎の娘を迎える。
寛永3(1626)年、後水尾天皇の二条城行幸に際し上洛、行幸の後、正四位下参議に昇進した。このとき疱瘡に罹患し、翌寛永4(1627)年1月4日、26。歳の若さで亡くなる。

忠郷に嫡子が無かったため、本来なら蒲生氏は断絶するところであったが、母が家康の娘であるということで、上山藩4万石を領していた弟の忠知を後嗣として伊予松山24万石が与えられ、蒲生家を繋いだのだった。




天正11年
(1583)
秀行、蒲生氏郷・冬姫の嫡男に生まれる
文禄4年
(1595)
父・氏郷死去
秀行、徳川家康の娘・振姫と婚約し、家督を継ぐ
慶長3年
(1598)
御家騒動を咎められ、宇都宮へ移封(18万石に減封)
慶長5年
(1600)
関ヶ原の戦い
秀行、結城秀康とともに上杉勢の南下を阻む
慶長6年
(1601)
米沢へ移封された上杉氏に代わり、秀行、会津藩主に復帰
慶長8年
(1603)
嫡男・忠郷生まれる
慶長14年
(1609)
重臣・蒲生郷成と岡重政が対立、郷成派が若松城下を立ち退く
慶長16年
(1611)
凶作と大地震に見舞われ、大きな財政負担を抱かえる
慶長17年
(1612)
秀行死去
忠郷が家督を継ぐ
重臣間の抗争続く
寛永4年
(1627)
忠郷死去
弟・忠知が家督を継ぐが、伊予松山に転封



posted by 夢子 at 17:02| 会津若松の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする