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2013年04月18日

【会津の歴史】加藤氏時代

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子のないまま世を去った蒲生忠郷に代わり、伊予国松山城藩主・加藤嘉明が望まぬ移封で会津入り



寛永4(1627)、加藤嘉明が松山城藩主から鶴ヶ城主へ。
温厚な伊予から厳冬の会津への移動は65歳の嘉明には堪えたと思われる。


嘉明は入部早々検知を行ない村々の年貢を確定する。
また、布令を出して、年貢を納める際の米俵の統一や、蒲生時代は米納だったのを半分は銭にすることを決めた。

白河街道
城下から冬坂峠を越えて白河に通じる道は、標高も高く非常な難路だったので、滝沢峠を利用する新道を開通。
嘉明亡き後は、子・明成が大規模な改修を行い、江戸時代を通じて会津と中通りを結ぶ主要ルートとなる。


寛永8(1631)、嘉明が69歳で死去すると家督は嫡男の明成が継いだ。

翌寛永9年、明成は嘉明が開いた白河街道を、8万人の領民を動員して再整備。

寛永16年3月、約30年前の蒲生秀行時代の大地震で傾いたままの鶴ヶ城の大改修に着手。
7層の天守を5層に改め、北と西の馬出は出丸へと拡張。この時も多数の領民が動員された。

度重なる大土木工事で藩の財政を圧迫。解決策して大増税を敢行する。
明成の急激な増税により、農民が破産に追い込まれ、村を捨てて出ていく者たちが後を絶たず。

寛永18〜19年の大凶作(寛永の大飢饉)で、増税で苦しむ農民たちにさらなるダメージが。これにより米の値段は跳ね上がり、生活苦から農民が他国に逃げ出した。

明成が暗愚なために家中で堀主水立ち退き事件が起こって江戸幕府の介入を招き、寛永20年5月2日、幕府は明成の領地没収を決定する。

ただし、嘉明の功績を鑑みて家名を残すために、嫡子・明友に石見国吉永に1万石を与えた。


大規模な土木工事を繰り返した明成の悪政が、領国を疲弊された。



posted by 夢子 at 15:06| 会津若松の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする