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藩祖・保科正之から伝統的に領民思いの藩
会津藩の藩祖・保科正之は、徳川2代将軍・秀忠の実子にあたる。母は元北条家臣の娘・お志津。
秀忠の正室・お江は気が強く、秀忠は正之の存在を隠し、老中の計らいで武田信玄の娘・見性院に預けられた。その後見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預けれられた。
幕府から養育費として5000石加増され、高遠藩は3万石となった。やがて正之は正光の養子となり、正光の死後、高遠藩主となる。
寛永13(1636)年、出羽山形藩20万石を拝領
寛永20(1643)年、陸奥会津藩23万石を拝領
正之の会津移封には兄・家光の恩情があったが、同時に会津藩には奥羽の押さえの役割が期待されていた。
正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
保科正之の幕政
家光の死後、遺命により甥の4代将軍・家綱の後見(大政参与)となる。
明暦3(1657)年の明暦の大火では、火が幕府の米蔵にかかりそうになると、躊躇せずに蔵を開放して町民たちに自由に米を持ち出させ、火災後は市中6ヶ所で粥の炊き出しを行なった。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。
他にも殉死の禁止、大名家臣の子弟を人質として江戸に置く証人制度の廃止の実施。
保科正之の藩政
会津の藩主となった正之だったが、普段は江戸にいて会津に帰ったのはわずか3回。
帰国回数は少なかったが、正之は藩政にも力を注いだ。
凶作に備えて米を蓄える社倉制度を作り、この社倉の米を使って日本最初の老齢年金といわれる制度を作った。
また、稽古堂も設け藩士の子弟教育に尽力した。これが後の日新館となった。
寛文12年、正之が62歳で死去すると、2代目は四男・正経が継ぎ、正経が早世すると正之の六男・正容が3代藩主となった。
正容の代に、幕府から松平の姓と葵の紋の使用を許され、徳川一門として正式に認められた。