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松平姓と三つ葉葵葵の紋の永代使用を許され、名実ともに徳川一門として認められる
松平正容
天和元(1681)年、兄・正経の死去により家督を相続し、会津藩第3代藩主となる。
元禄9(1696)年、松平姓と三つ葉葵葵の紋の永代使用を許され、名実ともに徳川一門として遇されることになる。
この頃、藩の財政が次第に苦しくなり、正之の教訓にもかかわらず、農民からの過度の収奪、役人の不正などがはびこる。
松平容貞
享保16(1731)年、父・正容の死去に伴い家督を相続し、会津藩第4代藩主となる。
会津城下の大火、江戸城の普請による出費などで藩財政は深刻な危機に。
寛延2(1749)年12月、農民達による打ち壊しが発生し城下に及び、本年分の年貢の半減しこれを鎮めた。
松平容頌
寛延3(1750)年、父・容貞が27歳で死去。家督は7歳の長男の容頌が継ぎ、会津藩第5代藩主となる。
この頃、会津藩では財政がさらに厳しくなり、借金が40万両近くになり財政再建を図ったが好転せず。さらに借金は増え57万両に達する。
成人して容頌は徐々に政務を自ら執り始め、自分より6歳年下の田中玄宰を家老として登用し、藩政改革を行なう。玄宰は8大項目からなる改革の骨子案(農村の復興、殖産興業、軍政改革、教育改革など)を示した。
農村復興政策においてはそれまで城で命令だけを出していた代官や奉行らを直接、農村に赴かせて指導に当たらせた。また、均田制の導入なども行なっている。特産品売買においては蝋や漆の専売化、養蚕や漆器の生産制強化などを行なった。また、他国から酒造商人を招聘して、会津における特殊な酒を製造し、販売した。
そのほかにも朝鮮人参の栽培や紅花の栽培、製糸、機織、川魚の養蚕制などにも尽力し、寛政5年には江戸の中橋に会津藩産物会所を創設して、江戸で国産品の多くを販売し、多くの利益を得た。これによって財政再建は成されたのである。
松平容保
天保6(1836)年、美濃国高須藩主・松平義建の六男として生まれる。
弘化3(1846)年、12歳の時に、叔父の会津藩8代藩主・容敬の養子となり、嘉永5(1852)年に家督を継ぐ。
万延元(1860)年、桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。
文久2年(1862)年、文久の改革の結果、新設させた京都守護職に就任する。
京都守護職とは、御所の警備、京の治安維持を主な職責としたが、当時の京は長州など尊攘派によるテロが横行していた。それを押さえこめば、尊攘派に恨まれるのは目に見えている。
はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。しかし政事総裁職・松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意。最後までこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、幕府と運命を共にした。
同年12月に会津藩兵を率いて上洛した容保が孝明天皇に初めて面会したのは年が明けて正月2日のこと。これ以降、両者の関係は急接近し、会津絶頂の時代が訪れる。
八月十八日の政変では薩摩藩と結んで長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された。
元治元(1864)年、蛤御門の変(禁門の変)でも薩摩藩とともに長州勢を撃退するなど会津藩はまさに官軍の中枢をなしていた。
だが同盟関係にあった薩摩がひそかに長州と通じていたのが読めなかった。第一次長州征伐に次いで、第二次長州征伐で幕府軍が敗れると、時勢の流れが一変してしまう。
さらに将軍・家茂の急死、孝明天皇の崩御で一気に倒幕ムードに。
御三家の尾張家、御三家筆頭の越前家でさえ将軍家をみかぎり新政府に加担するなかで、容保は大政奉還後も将軍・慶喜にひっぱりまわされた。
鳥羽・伏見の戦いに敗れ、慶喜とともに江戸にもどったが、こんどはその慶喜にも遠ざけられ、やむなく会津若松に舞い戻る。
容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎する。西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると、新政府軍は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧し、北陸地方へ進軍する。
容保は幕府派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い篭城するが、その後新政府軍の降伏勧告に応じ、抗戦を主張する佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。
その後は鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居するが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられた。