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戊辰戦争、いや会津戦争で起きた悲劇の象徴として、娘子軍の戦い、西郷家の集団自決と並び称されるのが白隊の飯盛山集団自決
白虎隊
戊辰戦争(会津戦争)に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。
また17歳と偽って白虎隊に入り込む者も少なくなかった。
白虎隊の飯盛山集団自決
彼らは前線で必死に戦うが、落ち延びた飯盛山で戦闘の様子を眺めると、なんと市中が火に包まれている。実はこのときまだ鶴ヶ城は焼けていなかったのだが、彼らは城が落ちたと勘違いし、もはやこれまでとお互いを刺し自害。
慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
会津藩は軍制改革を断行。藩正規軍を年齢別に編成しなおした。
白虎隊・・・16〜17歳
朱雀隊・・・18〜35歳
青龍隊・・・36〜49歳
玄武隊・・・50歳以上
白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた(異説あり)。
8月21日、新政府軍3000はついに母成峠を突破し、翌22日に一気に猪苗代になだれ込んできた。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
白虎隊も各所で苦戦を強いられる。
一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たった。
二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡した。
誇り高き会津武士の魂。
君公と国のため、鬼神の如く戦い、潔く死ぬ。
君公が亡くなった今、お伴をして腹を切るまで・・・。少年たちはそう決めたのだ。