
直江兼続屋敷跡であり、山鹿素行誕生地です。
ここらへんは蒲生時代からの一等地で、蒲生氏郷亡き後、秀吉の命によって上杉景勝が会津若松城の藩主に。直江兼続の屋敷は100m四方あったといわれています。
直江兼続は上杉謙信の養子・景勝に幼少時代から側近として仕え、謙信が病死した際は、景勝の家督相続に貢献。
22歳のとき、景勝の命により、直江景綱の娘と結婚し、直江家の家督を継ぎ、以後、上杉家の重臣として手腕を発揮。
秀吉から『天下の陪審』と称賛され、景勝が越後から会津に移封となった際は、米沢城を与えられるなど、破格の扱いを受けた。
秀吉の死後は、景勝に謀反の疑いを掛けた徳川家康に対して絶縁状・直江状を送り、家康と全面対決。
関ヶ原の戦いの後、家康によって減封され、苦境に立たされた上杉家を立ちなおすために、独自の経済政策を打ち出し、最後まで景勝に仕えた。


山鹿素行は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖。
1622(元和8)年、浪人・山鹿貞以の子とここでして生まれる。その後6歳で江戸に出て、9歳のとき林羅山の門下に入り朱子学を学んだ。
朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行った。大石内蔵助も門弟の一人で、赤穂四十七士の生みの親として有名。
素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬は松浦家に召し抱えられ、後に家老となっているんですが、平戸城は山鹿素行の軍学に沿って縄張り(建築)がなされ、平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭です。
会津と平戸が自分の足で結びついた。こういう瞬間って歴史を勉強しているものにとっては最高ですね。次
は赤穂城だね。
直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地
福島県会津若松市山鹿町1-25(地図)
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