朝8時にホテルを出て、一日中ずっと見学しているので、夕方になりかなりクタクタでした。
でも最後にどうしても行きたいところがあり、北出丸大通りに。

ここには西郷頼母邸跡があります。鶴ヶ城の正面です。ここに自宅があるだけで、西郷家が重臣だったということがわかりますよね。
西郷頼母は会津の家老で、幕府から京都守護職就任を要請された藩主・松平容保に辞退を進言。また、禁門の変直後にも上洛し、守護職辞任を建言したため、家老職を解任された上、蟄居させられました。
容保の怒りを買った家老・頼母ですが、西郷家は藩祖・保科家の一族でもあります。
西郷家の初代は保科政近といい、藩主の分家でした。3代目のときに藩主と同じ名前をはばかり『西郷』と名前を変えました。
だから、頼母は家老ではあるが、藩への想いはある意味容保以上だったのかも。
⇒会津武家屋敷、会津藩家老・西郷頼母の屋敷
西郷頼母邸跡
福島県会津若松市追手町(地図)
ここから北へと延びる北出丸大通りを少し行くと、右手に会津酒造歴史館があります。会津戊辰戦争終結の地です。写真撮り忘れました(^^;;
1868年9月22日、この場所に赤い敷物(緋毛氈)が敷かれ、会津藩の降伏式が行われました。
会津の人々は緋毛氈(ひもうせん)をちぎって、『泣毛氈(きゅうけつせん)』と名づけ、『この日を忘れないように』持ち帰ったそうです。
会津藩の降伏が会津の人々の幸福になることを祈るしか私にはできません。
戊辰戦争って新政府移行への落としどころだったと思う。だから、余計にこの戦いで亡くなった人たちのことを思うと胸が締め付けられる。
今の日本は、このときのたくさんの人たちの命のおかげで成り立っています。これだけは忘れないようにしよう。



甲賀町口門跡(こうかまちぐちかくもんあと)
この門は郭外より鶴ヶ城の郭内入る門の石垣で、唯一残っている郭門です。
会津は蒲生氏郷時代に町割りを行い、城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外は16の郭門によって仕切られました。
この甲賀町口門は大手門として他の郭門よりも厳重な構えをとっていました。
明治から昭和にかけて、城内にあった鐘撞堂が置かれていましたが、第二次世界大戦後城内に戻されました。鐘撞堂です。鶴ヶ城で最後の最後にみた鐘撞堂です。鐘撞堂は会津の人には絶対に欠かせない一部ですね。そう思うと鶴ヶ城でへたれながらも石垣を上り、近くで鐘撞堂を見てよかった。
甲賀町口門跡
福島県会津若松市栄町4-49付近(地図)
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