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2013年07月25日

会津の郷土料理を堪能・籠太 (かごた)

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会津の歴史を堪能したあとは夕食です。

籠太(かごた)さんです。甲賀町口門跡から近いので歩いていきました。

鶴ヶ城会館と会津葵でいろいろと食べたので、夕食に時間になって、おなかが空いておらず(^^;;

でも、会津の郷土料理はしっかり食べてきましたぁ〜

あっ、こちら人気のお店でカウンターもお座敷もお客さんでいっぱいでした。事前に予約しておいてよかった。予約していないお客さんは断られていましたからね〜


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こづゆ

里芋や人参、きくらげなどを貝柱のだし汁で煮込んだ、会津を代表する郷土料理です。

こういう煮物にきくらげって珍しいですよね〜


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にしんの山椒漬け

前日、田季野さんで鰊の天ぷら、田楽を食べたので、ここではまだ食べていない山椒漬けを。

会津で鰊を堪能しました。一度にこんなに食べたのははじめてです(^○^)


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前日も厚揚げの田楽を食べましたが、田季野さんの田楽が美味しかったので、ここでも注文。

田楽の味噌がお店によって違うから楽しめました。


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大将がおすすめの塩とうふ

会津西部高郷村でつくられる豆腐です。めちゃ素朴な味です。


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山菜の天ぷら


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イタリアンなサラダ

なんかお店のイメージとは違うんですけどね。


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会津高田町で育った平飼いの地鶏を使った焼き鳥です。

地元のもとにこだわっているので、会津の味を堪能することができました。

大将は話しが面白いんですが、忙しくてなかなか話しができず、ここはあまり混んでいないときのほうがもっと楽しめそうですね。


会津居酒屋 籠太(かごた)
福島県会津若松市栄町8-49
TEL  0242-32-5380

営業時間 17:00 〜 23:00
定休日 日曜のみ不定期

posted by 夢子 at 15:42| 旅行記・2013年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

西郷邸跡、甲賀町口門跡

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朝8時にホテルを出て、一日中ずっと見学しているので、夕方になりかなりクタクタでした。

でも最後にどうしても行きたいところがあり、北出丸大通りに。


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ここには西郷頼母邸跡があります。鶴ヶ城の正面です。ここに自宅があるだけで、西郷家が重臣だったということがわかりますよね。


西郷頼母は会津の家老で、幕府から京都守護職就任を要請された藩主・松平容保に辞退を進言。また、禁門の変直後にも上洛し、守護職辞任を建言したため、家老職を解任された上、蟄居させられました。

容保の怒りを買った家老・頼母ですが、西郷家は藩祖・保科家の一族でもあります。

西郷家の初代は保科政近といい、藩主の分家でした。3代目のときに藩主と同じ名前をはばかり『西郷』と名前を変えました。

だから、頼母は家老ではあるが、藩への想いはある意味容保以上だったのかも。

会津武家屋敷、会津藩家老・西郷頼母の屋敷

西郷頼母邸跡
福島県会津若松市追手町(地図)



ここから北へと延びる北出丸大通りを少し行くと、右手に会津酒造歴史館があります。会津戊辰戦争終結の地です。写真撮り忘れました(^^;;
1868年9月22日、この場所に赤い敷物(緋毛氈)が敷かれ、会津藩の降伏式が行われました。

会津の人々は緋毛氈(ひもうせん)をちぎって、『泣毛氈(きゅうけつせん)』と名づけ、『この日を忘れないように』持ち帰ったそうです。

会津藩の降伏が会津の人々の幸福になることを祈るしか私にはできません。

戊辰戦争って新政府移行への落としどころだったと思う。だから、余計にこの戦いで亡くなった人たちのことを思うと胸が締め付けられる。

今の日本は、このときのたくさんの人たちの命のおかげで成り立っています。これだけは忘れないようにしよう。


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甲賀町口門跡(こうかまちぐちかくもんあと)

この門は郭外より鶴ヶ城の郭内入る門の石垣で、唯一残っている郭門です。

会津は蒲生氏郷時代に町割りを行い、城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外は16の郭門によって仕切られました。

この甲賀町口門は大手門として他の郭門よりも厳重な構えをとっていました。

明治から昭和にかけて、城内にあった鐘撞堂が置かれていましたが、第二次世界大戦後城内に戻されました。鐘撞堂です。鶴ヶ城で最後の最後にみた鐘撞堂です。鐘撞堂は会津の人には絶対に欠かせない一部ですね。そう思うと鶴ヶ城でへたれながらも石垣を上り、近くで鐘撞堂を見てよかった。


甲賀町口門跡
福島県会津若松市栄町4-49付近(地図)

posted by 夢子 at 14:34| 旅行記・2013年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地

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直江兼続屋敷跡であり、山鹿素行誕生地です。

ここらへんは蒲生時代からの一等地で、蒲生氏郷亡き後、秀吉の命によって上杉景勝が会津若松城の藩主に。直江兼続の屋敷は100m四方あったといわれています。


直江兼続は上杉謙信の養子・景勝に幼少時代から側近として仕え、謙信が病死した際は、景勝の家督相続に貢献。

22歳のとき、景勝の命により、直江景綱の娘と結婚し、直江家の家督を継ぎ、以後、上杉家の重臣として手腕を発揮。

秀吉から『天下の陪審』と称賛され、景勝が越後から会津に移封となった際は、米沢城を与えられるなど、破格の扱いを受けた。

秀吉の死後は、景勝に謀反の疑いを掛けた徳川家康に対して絶縁状・直江状を送り、家康と全面対決。

関ヶ原の戦いの後、家康によって減封され、苦境に立たされた上杉家を立ちなおすために、独自の経済政策を打ち出し、最後まで景勝に仕えた。


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山鹿素行は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖。

1622(元和8)年、浪人・山鹿貞以の子とここでして生まれる。その後6歳で江戸に出て、9歳のとき林羅山の門下に入り朱子学を学んだ。

朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行った。大石内蔵助も門弟の一人で、赤穂四十七士の生みの親として有名。

素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬は松浦家に召し抱えられ、後に家老となっているんですが、平戸城は山鹿素行の軍学に沿って縄張り(建築)がなされ、平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭です。

会津と平戸が自分の足で結びついた。こういう瞬間って歴史を勉強しているものにとっては最高ですね。次
は赤穂城だね。



直江兼続屋敷跡・山鹿素行生誕地
福島県会津若松市山鹿町1-25(地図)

posted by 夢子 at 14:06| 旅行記・2013年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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