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2013年04月23日

【会津の歴史】新島八重

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会津のジャンヌダルクとして、同志社のハンサムウーマンとして、日本のナイチンゲールとして、江戸・明治・大正・昭和と移り変わった激動の時代を、会津の武家魂とキリスト教精神で生き抜いた力強い生涯


弘化2年
(1845年)
会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生。
慶応元年
(1865)
但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川崎尚之助と結婚。
のち戊辰戦争の最中に離縁。
明治元年
(1868)
1月、鳥羽・伏見の戦い
兄・山本覚馬が薩長連合軍に捕らえられる。

8月、重要拠点である戸ノ口原にて同盟国が敗北。鶴ヶ城での籠城戦が始まる。

9月、城外の一ノ堰の戦いにて父・権八が戦死。会津藩が降伏。
明治4年
(1871)
兄・山本覚馬を頼って、母・さく、姪・峰と京都へ。
明治8年
(1875)
新島襄と婚約。
同志社英学校開校。
明治9年
(1876)
新島襄と結婚。
明治23年
(1895)
夫・襄が病気のため死去。
襄の臨終の床で蘇峰に過去の非礼を詫びられ和解。
日本赤十字社の正会員になる。以後奉仕活動に勤しむ。
明治38年
(1905)
日露戦争時で2ヶ月間篤志看護婦として従軍。
昭和7年
(1932)
急性胆のう炎のため寺町丸太町上ルの自邸にて死去。享年87歳。


   



八重は会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の娘として生まれた。
幼いころから男勝りの気性で、13歳の頃には、四斗俵(約60kg)を肩の上まで4回は上げ下げできたといいます。

広い見識を持つ兄・覚馬の影響で、八重は裁縫よりも鉄砲に興味を示し砲術の道を志す。『おなごはならぬ』と父に厳しく諭されても決してあきらめず、やがて山本家の角場(鉄砲場)に立つことを許される。兄・覚馬からは洋式砲術の操作法を学ぶ。

覚馬を慕って会津を訪れた藩校・日新館の教授の川崎尚之助とは、新式銃の開発に励むうちに信頼関係が生まれ結婚。

戊辰戦争の鶴ヶ城籠城戦では、八重は断髪・男装して、7連発式のスペンサー銃と刀をとって
果敢に闘いましたが、鶴ヶ城は開城し会津藩は降伏する。

戊辰戦争から3年、八重は京都府顧問となっていた兄・覚馬を頼って、母、姪とともに上洛する。兄の推薦により京都女紅場(女子に裁縫や読み書きを教える学校)の権舎長・教道試補となる。八重は鉄砲に別れを告げ、知識という新たな生きがいを得る。

このころ、兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、婚約、結婚。京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった。

夫・襄とともに同志社の運営に力を注ぎ、その発展の礎を築いた。

封建的な風潮が残る中、男女の平等を望む八重は西洋帰りの夫を『ジョー』と呼び捨てにし、また夫より先に車に乗る姿を周囲に『悪妻』と罵られても気にしなかった。そんな彼女の生きざまを襄は『ハンサムウーマン』と称した。襄は49歳で生涯を閉じるが八重は最後まで彼を支えた。

襄が亡くなった後、八重は日本赤十字社の正会員となり、社会奉仕事業に献身する道を歩み始める。日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍。日露戦争時では、2ヶ月間篤志看護婦として従軍。この功績に対して、1896年には勲七等宝冠章、翌年には勲六等宝冠章が授与されました。

その後、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されました。

1932年、急性胆のう炎で永眠。


posted by 夢子 at 14:56| 会津若松の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月22日

【会津の歴史】白虎隊

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戊辰戦争、いや会津戦争で起きた悲劇の象徴として、娘子軍の戦い、西郷家の集団自決と並び称されるのが白隊の飯盛山集団自決


白虎隊
戊辰戦争(会津戦争)に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。
また17歳と偽って白虎隊に入り込む者も少なくなかった。


白虎隊の飯盛山集団自決
彼らは前線で必死に戦うが、落ち延びた飯盛山で戦闘の様子を眺めると、なんと市中が火に包まれている。実はこのときまだ鶴ヶ城は焼けていなかったのだが、彼らは城が落ちたと勘違いし、もはやこれまでとお互いを刺し自害。


慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。

会津藩は軍制改革を断行。藩正規軍を年齢別に編成しなおした。

白虎隊・・・16〜17歳
朱雀隊・・・18〜35歳
青龍隊・・・36〜49歳
玄武隊・・・50歳以上

白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた(異説あり)。

8月21日、新政府軍3000はついに母成峠を突破し、翌22日に一気に猪苗代になだれ込んできた。

会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。

白虎隊も各所で苦戦を強いられる。
一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たった。
二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡した。

誇り高き会津武士の魂。
君公と国のため、鬼神の如く戦い、潔く死ぬ。
君公が亡くなった今、お伴をして腹を切るまで・・・。少年たちはそう決めたのだ。


posted by 夢子 at 13:58| 会津若松の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月20日

【会津の歴史】戊辰戦争・・・会津戦争

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1853年 ペリーが浦賀に来航
1858年 日米修好通商条約締結
1860年 桜田門外の変
1864年 禁門の変
1866年 薩長同盟成立
1867年 徳川慶喜、大政奉還を奏上
王政復古の大号令
1868年 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争開戦)
京都入りを目ざす旧幕府軍1万5000と新政府軍5000が衝突。装備と士気が勝る新政府軍の勝利。
鳥羽・伏見の戦いのさなか、徳川慶喜は江戸に逃げ帰り、新政府に恭順の意を表した。これに伴い、松平容保も会津藩主の座を養子・喜徳に譲り、謝罪嘆願書を寛永寺貫主・輪王寺宮に託した。

しかし、新政府はこれを黙殺。逆に東北諸国に容保追討令を下した。

新政府は、奥州鎮撫総督を仙台藩に派遣、集まった東北諸藩に容保死罪の命令を伝えるが、東北諸藩は協議の末、容保助命の嘆願書を総督府に提出。しかし、総督府は取り合わず会津進撃命令を繰り返すばかり。

そんな中、総督府参議・世良修蔵の密書が仙台藩士・瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある『奥羽皆敵』の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。
1868年 会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。
↓ ↓ ↓
奥羽越列藩同盟
戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)を中心に東北25藩、北越6藩が同盟。
新政府軍に反抗したが、敗戦を重ね、諸藩が次々に脱落していった。
旧幕府に見捨てられ、新政府への謝罪も受け入れられない以上、戦争もやむなしと覚悟を決めた容保は、政務担当家老・梶原平馬を起用し、戦争準備を急いだ。
梶原は長岡藩家老・河井継之助の斡旋で横浜の武器商スネルから新型の武器を買い入れ、旧幕府から品川砲台の大砲などを借り受けた。
白河口の戦い

年月日:1868年閏4月20日- 7月14日
場所:磐城国白河郡白河城(旧陸奥国南東部)
戦力:新政府軍 約1,500人 VS 奥羽越列藩同盟軍 4,500人以上
結果:新政府軍の白河城占領


白河は奥州街道沿いの要地。旧幕府の直轄地で二本松藩が管理していた。
表面上は新政府に従いつつ、実は支援を決めていた仙台藩は、総督府参謀・伊地知正治が白河への増援計画を知り、ただちに会津藩に通報。会津藩は新政府軍の機先を制して閏4月20日、白川城を攻撃し陥落させた。

会津による白河城占拠を知った伊地知正治は、25日払暁に白坂口へ奇襲をかけたが会津藩兵はこれを迎撃した。新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、行軍の疲労や土地勘の無さも重なり損害を出して芦野へ撤退した。

翌26日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同若年寄横山主税が白河城に入場した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した。山口二郎や純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、西郷頼母は『兵力で勝っており不要である』として却下した。このとき、新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2,000から2,500名であった。

新政府軍は、5月1日に白河城の攻略にかかった。
兵力を3つに分け、中央隊は城の正面にある小丸山を占拠し稲荷山に砲撃して注意と兵力を引きつけた。稲荷山の同盟軍は中央隊を敵の主力と見て激しく応戦。中央隊が同盟軍を引きつけている間に、右翼隊は雷神山を、左翼隊は立石山を占領し、同盟軍は三方から砲撃を受けることに。結果、同盟軍の副総督・横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出し惨敗。城は新政府軍の手に落ちた。
二本松の戦い

年月日:1868年7月29日
場所:陸奥国安達郡二本松城
戦力:新政府軍 約2,000人 VS 奥羽越列藩同盟軍 約300人
結果:新政府軍の勝利


二本松藩は10万700石を領し、領国の岩代国安達郡は会津領の猪苗代盆地へ通じる奥羽街道の要衝に位置していた。
藩の兵力は1,000から2,000足らずで、戊辰戦争時は農民兵、老人兵、少年兵を動員してかろうじて2,000を維持していた。しかし、主力は白石方面に出動しており、二本松城にはわずか300ほどの守護兵しかおらず。それも多くは老人と少年であった。

戊辰戦争時の藩主は丹羽長国だったが、病弱の藩主に代わり、家老・丹羽一学が藩政を差配していた。
二本松の戦いに先立つ28日、病を患いながらも城に留まろうとする藩主・丹羽長国を無理に駕籠に乗せて親戚の米沢藩に送り届ける。二本松城には軍事総督として家老の丹羽一学が残った。

二本松藩は、会津藩同様、尚武の気風が強く、武士らしく会津との信義を貫く覚悟だった。

7月29日、新政府軍の総指揮官・板垣退助は三方から城を包囲し、一気に城門を突破。

城外の陣地をほぼ攻略された二本松藩は、二本松城に撤退して最後の抵抗をするも、兵数・装備の差はいかんともしがたく、二本松にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の丹羽一学をはじめ次々と自刃して城と運命をともにした。

この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかったことがさらなる悲劇をもたらす。激戦の最中に二本松少年隊の隊長と副隊長が相次いで戦死し、指揮できる者がいない中、二本松少年隊40名は最前線に放置される事態に陥っていた。彼らは戦場をさ迷ううちに一人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて一人一人命を落としていく。その中には13歳になる少年兵と遭遇した土佐藩兵が、その幼さに驚愕して生け捕りにしようとするも、抵抗されたために射殺するしかなかったケースもあった。
母成峠の戦い

年月日:1868年8月21日
場所:岩代国会津藩母成峠
戦力:新政府軍 約2,200人 VS 奥羽越列藩同盟軍 800人以上
結果:新政府軍の勝利

二本松城を落とした新政府軍は次の攻めで意見が分かれる。
江戸に居る大総督府の参謀・大村益次郎が『枝葉(会津藩を除く奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす』と仙台・米沢への進攻を指示したが、二本松に居る参謀・板垣退助と伊地知正治は一気に会津を攻めるべきの考えだった。結局、雪の降る時期になると新政府軍が不利との観測から会津攻めを先にと決まった。
しかし、今度は板垣と伊地知が進撃ルートをめぐって対立。板垣は御霊櫃峠(御霊櫃口)を、伊地知は母成峠(石筵口)を推して互いに譲らず、最終的に百村発蔵の説得により、伊地知の案・母成峠越えに決まった。

二本松から会津へのルートは複数あり、会津軍は守備兵力の分散を強いられた。
その中で会津藩が特に警戒して防御を固めたのは会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)で、さらに二本松と若松を最短で結び、当時の主要街道であった中山峠(二本松口)であった。
会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測した。しかし新政府軍はその裏をかくかたちで母成峠へ。
旧幕府軍の母成峠の兵はわずか800人。攻める新政府軍は3,000人に近かった。

8月21日、濃霧の中、新政府軍は兵を3隊に分けて母成峠を目指した。
母成峠の旧幕府軍守備隊は、決死の銃剣突撃と砲撃で敵を圧倒し、一時は数キロも押し戻した。だが、濃霧の中、間道から現れた新政府軍に背後を襲われた旧幕府軍は大混乱に陥った。さらに新政府軍の大砲撃が加わったことで、兵は散り散りになり撤退することに。

この戦いでの土方歳三も母成峠にいたとする資料もある。
鶴ヶ城決戦

8月22日、母成峠を超えた新政府軍は猪苗代を駆け抜け、休む間もなく会津へと進撃。

23日早朝、新政府軍は若松城下に突入した。勢いに乗る新政府軍は一気に外郭を破って内郭に乱入、城下は大混乱に陥った。
会津軍も奮戦したが、わずかな兵で鶴ヶ城を守るにはあまりに巨大すぎた。必死の猛反撃により、何とか城を守り、新政府軍はいったん外郭まで後退し、城を包囲する作戦に切り替える。この隙に、国境守備にあたっていた会津諸隊が続々帰城。一方、新政府軍もどんどん増強された。

26日、新政府軍は城の南東にある小田山を占拠し、最新式のアームストロング砲を据えて、城の天守閣に向けて砲撃を始める。

容保は起死回生の策を立て、佐川官兵衛に1,000の兵を与え、新政府軍の本営を叩く。佐川は奮戦し一時は長州・大垣隊の陣地を奪取したが、結局は目的を果たせなかった。

9月になっても新政府軍の増派は続き、総兵力は2万7000を突破。列藩は崩壊し、9月4日には米沢藩が降伏、14日には仙台藩も降伏。また、伝習隊、衝鋒隊、新撰組の土方グループなど旧幕府応援兵も会津を去った。

14日、小田山からの一斉砲撃を合図に、新政府軍は鶴ヶ城への総攻撃を開始。
諏訪神社付近で佐川隊を撃破した新政府軍は、城の北西に迫った。会津兵の猛反撃に苦戦したが最終的には城の西側をほぼ制圧。

17日、新政府軍は南部もほぼ制圧し、本城は完全に丸裸となる。

容保はついに降伏を決意。会津藩は明治元年9月22日、白旗を揚げる。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった。
箱館戦争

10月25日、榎本武揚らが箱館・五稜郭を占拠
12月15日、榎本らが蝦夷地に新政府を樹立
4月 9日、新政府軍が蝦夷地攻撃を開始
5月18日、榎本ら新政府に降伏、戊辰戦争終わる


posted by 夢子 at 15:18| 会津若松の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする